神経質な母親に厳しく育てられ、そのように育った。行儀がよく、挨拶をし、正直者で、誰にでも優しい、真面目な一人っ子だった。でもどういうわけか、母親は私に、天真爛漫で底抜けに明るい、お転婆な女の子になってほしかったらしい。

母の妹が産んだ、私のひとつ上の従姉は、まさに母親の理想通りの子で、つまり私とは正反対だった。母は常に私たちを比較した。

「おばちゃん、大好き」

「おばちゃんも、従姉ちゃんのことだーい好き」

そんなやりとりが、私の眼前で頻繁になされていた。


私が母に好きだと言って、好きだと返ってきたことは一度もない。

手を繋ごうとすれば、気持ち悪い。膝に座ろうとすれば、暑苦しい。そう言って振り払われた。

天真爛漫な従姉は、サボるのも天真爛漫にやってのけた。彼女の夏休みの宿題は、ほとんど私がやっていた。


2のとき。愚かにも、私のことは好きじゃないの?と尋ねてしまった。

「あんたじゃなくて従姉ちゃんが娘だったらよかった」

死のうと思って、家の一番高い屋根に乗ってはみたが、怖くてそこから飛び降りることはできなかった。死ねば、母を気の毒に思った叔母が、従姉を母に譲ってくれるかもしれないと思ったのだった。


5のとき。小説「世界の中心で、愛を叫ぶ」がヒットし、本屋の一番目立つところに平積みされていた。内容はよく知らなかったけど、前日の夕刊でも特集されていて、売れていることは知っていた。本屋のすごい売り出しっぷりと少し珍しいタイトル、そして、曇天の真ん中に少しだけ青空が顔を覗かせているあの表紙写真に惹かれて、読んでみたいなと言った。恋愛小説が読みたいだなんて色気づいて気持ち悪い、下品だ、と、そこから帰宅するまでの小一時間馬鹿にされ続けた。


スポーツブラをやめてブラジャーにしたいと言ったときも、周りより少し早く生えてきたムダ毛を修学旅行の前になんとかしたいと言ったときも散々馬鹿にされた。生理用品もなかなか買ってもらえず、よく服を汚し、それでまた怒られた。


よその人が社交辞令で私を褒めるたび、ブスなのだから思い上がるな、と後で何度も注意された。私の前髪や眉毛を整えてやると言っては、わざと変に切って馬鹿にされた。伸ばしている後ろ髪は、いつも切られた。


よその人の前で、恥ずかしい話や内緒にして欲しいと言った話を披露され、馬鹿にされた。

学校でいじめに遭い打ち明けたときには、いじめられる側に原因があると言われた。母はいじめっ子たちについて、私の前で執拗に褒め続けた。



思春期になって、男たちが妙に優しくなった。

当時ブレイクした清純派女優に似ている、との触れ込みで、謎にモテた。

ちょっと微笑んだり、甘えたり、そして手を繋いだり、キスしたり、セックスすると、男たちは優しくなった。都合よく扱われていることは重々分かっていた。でも、物心ついてから初めて、誰かに抱きしめられたり頭を撫でられたりした。手を繋いでも、振り払われることはない。ぎゅっと握り返してくれたりする。

男たちの求めには最大限応えた。10代から20代にかけ、私はどんどん自分の価値を落としていった。


社会人1年目、母を五つ星ホテルのランチビュッフェに連れていった。外資系の洒落た内装や、最上階にある会場から見下ろす都会の風景に心が躍った。母の好物を一緒に食べ、美味しいと言い合ったはずだった。

法事の席でネタにされた。誰も名前を聞いたことない悪趣味なホテルに無理やり連れて行かれて、食べたくもないものを食べて、とても辛かったのだそうだ。


25のとき、本格的に自殺未遂をしたけど死ねずに目が覚めた。ヘタレすぎて自分のことが嫌になる。


三十路を過ぎ、今は結婚して子供もいる。

両実家から遠く離れた土地で、共働きでこなす育児は楽ではないが、子供はすごく可愛い。子供に対しては、ありのままを愛していることを、言葉でも態度でもたくさん伝えていきたい。


子供を愛しいと思うほどに、小さい頃の自分が不憫になる。

今なら分かるのは、母は自分自身の嫌いな部分を私に見出して苛立っていたということだ。だけど、じゃあ仕方ないねとはどうしても思えない。

母に振り払われて、気にしてない風を装い天真爛漫にその場を去る私の心のなかは、落胆と羞恥と絶望でいっぱいだった。母に好かれようと一生懸命に空回りを続けた。


私の子供を、母は抱っこさえしない。私から出てきた生き物だから、母の興味が向くことはないのだろう。


死ぬどころか子供を産んでしまったので、一生懸命生きることにしたが、小2のあの日に死んでいたらよかった、と毎晩深く反省している。

あの日の自分に会いに行けるなら、突き落としてあげたい。


今も、母の日も、誕生日も、欠かさずやっている。出先で母の好きそうなものを見つけては買って、実家に送っている。ずっと、ひとり空回りしている。